» 2013 » 3月 » 12のブログ記事

2年前のあの日、私は重症肺炎患者を抱えて、日々奮闘しておりました。
あの日は、その患者さんに最後の手段のつもりでPMXを主治医に提案し、OKをもらい回し始めていました。
お昼ちょっとすぎにICUで準備を始め、体外循環が軌道に乗ったのであとを看護師さんに頼み、ME室に戻ってホッと一息をついていたその時・・・
あの、未曾有の経験したことのないとんでもない揺れが襲いました。

咄嗟に走ってICUに向かおうとしましたが、あまりの揺れの激しさですぐには動けません。
揺れの激しさで動けないこともそうですが、周りから色々なものが落ちてきて、またたく間に部屋の中はめちゃめちゃになり足の踏み場もなくなってしまい、すぐには動けませんでした。

あの揺れは3分ほど続いたと後に報道で知りましたが、最初の大きなドカーンとした揺れで周囲の荷物が落ち切った後はもう落ちてくるものが無くなったので、その後も揺れは続いていましたが動けるようになり、走ってICUに向かいました。
PMXを回している患者さんもそうですが、他のたくさんの呼吸器装着患者が気になったからです。

ICUまではME室からわずか10mほどの距離でしたが、激しい横揺れの中を動いたので移動が大変でした。

ICUに入ると・・・患者さんの頭上のカウンターに置いてあるモニターが、今にも落ちてきそうなほどグラグラ揺れていて、医師や看護師達が総出でそれを押さえている光景が目に入りました。
奥のPMXを回している患者に目を遣ると・・・KM-8700をはじめとした人工呼吸器などのME機器が大きく揺れていて、看護師達がそれを押さえてくれていました。

建物全体はミシミシと恐ろしい音を上げていて、当時新築だったその病院の建物は耐震性は充分であると信じられていたのに、今にも倒壊するんじゃないかというくらい軋んでいて、新築の壁の所々には大きなひびが入るのが確認できました。
壁もそうですが、人工呼吸器の接続してある壁の酸素の配管が激しく揺れていて、間もなく酸素濃度低下の警報が一斉に鳴り出しました。
「配管、中の方でずれちゃったか・・・?」
もう、そうなったら、高圧用の人工呼吸器は全部使えない!!
今、院内の呼吸器装着患者は何人いた・・・?低圧で動く呼吸器の在庫は何台?とりあえず酸素ボンベを至急手配して、低圧呼吸器が接続できる患者以外は用手換気に切り替えて、人海戦術で乗り切るしかないか??

思うと同時に部下達に、
「院内の呼吸器全部点検してきて!エレベーターは使えないから階段でね!酸素止まってたら、すぐに病棟のボンベ使って用手換気に切り替えて!人手が足りない時はそこら辺に居る先生達捕まえてね!!連絡はPHSで!」
と指示を飛ばして、みんなで院内に散らばる呼吸器装着患者さん達のところに走りました。

私は同時に、院内の酸素の復旧を急がないと・・・と思って、院内の設備担当者との連絡や酸素業者との連絡に追われ・・・

幸い、酸素の配管がずれていたのは、ICUの一部の呼吸器のピンインデックスの根元部分だけと判明したのですぐに別のベッドを移動し、事なきを得ました。

このときは、人工呼吸器を接続していた酸素の配管が激しい揺れでズレたことで、インデックス部の根元が緩んでしまったようでした。(そのため呼吸器を接続していたほとんどのベッドの配管が緩み、酸素濃度低下警報が鳴ったらしい。)

総務課の設備関係者の尽力と酸素業者の迅速な対応により、緩んだベッドサイドのインデックス部も夕方には復旧(あの揺れから1時間ちょっとで業者さんが駆け付けてくれて、ピンインデックス部の修理を完了してくれました)、そのため、近隣の建物の損傷を受けた病院からの患者受け入れも可能となったのでした。

あの時の私の勤務先近辺の震度は震度6強。
本当にものすごい揺れでした。

息子の学校は、数年前に新築したばかりの建物のため耐震性は十分でしたが、窓ガラスが割れて危険だったそうです。

揺れが収まってハッと我に帰った時、息子のことが心配で(ついでに夫のことも少しだけw)気が狂いそうでしたが、息子の学校は新築で耐震性は充分であること、自信の時間はまだ授業中で家にはいないはずであること(下校中でもないはずだった)、普通に考えれば学校の校舎の中に居たはずなので、それであれば無事である可能性が高いこと(先生方の的確な避難指示を信じるしかありませんでした)、などから、必死で自分を落ち着かせ、とりあえず目の前のやるべき仕事を優先させていました。

激しい余震が30分おきくらいに襲う中、ようやく仕事が落ち着いて息子の学校に電話をかけたのが16時過ぎ。。。
ですが当然、自分の携帯電話は通じず、途方に暮れていたら、病院内の公衆電話を使ったらいいよと病棟の看護師さんに教えてもらって、そこからかけたら通じました!!
今すぐには行けないけど17時を過ぎて状況が落ち着いたら迎えに行くので、それまでは学校内で待っていて欲しいとお願いしたら快くOKしてもらえて・・・。
(あとで聞いたら、息子達はあの揺れのあとすぐに保護者達が続々とお迎えに来て、残ったのは息子と数人だけで、その子たちは安全のため校長室で待たされていたそうです。待ちながら、あのすさまじい津波の光景をテレビで見ていて、言いようのない不安な気持ちでいたそうです。。。息子には本当に申し訳なかったです・・・。)

17時過ぎ、まだまだ帰れる状況ではありませんでしたので、すこしだけ時間を貰って抜け出して、車で5分の距離の息子の学校まで迎えに行きました。

その途中で見た光景は、生涯忘れることが出来ません・・・。

道路の信号は落ちてしまって機能しておらず、道端のブロック塀は倒壊し・・・築年数が経過していた古い家も半倒壊、新しい家も屋根瓦がバラバラと落ちてしまっていてメチャメチャ、道路のあちこちは隆起していてひび割れていて・・・もし地震があと30分遅く起きて、息子達の下校時間に重なっていたらと思うと、背筋が凍る思いでした。

日が落ちて暗くなり始めていたはずですが、外筒も信号も付いていない真っ暗な街・・・。
自家発電と水道プラントが完備している院内にいたため気付きませんでしたが、街は停電していました。
(あとで知りましたが断水もしてました。)
停電と断水は1週間近く続きました。(断水は、場所によっては1カ月近くにおよびました。)

その後も計画停電があったり、透析関係の物品が手に入らない状況の中血液浄化を回さなければならなかったり、震災の混乱は夏くらいまで続いた訳ですが・・・。

そんな、忘れようにも忘れられない3.11。

あの時は思いもしませんでしたが、今の私は透析患者でもあり、災害弱者といわれる立場になりました。
ライフラインが止まって透析を受けられなくなれば、1週間も生きられないかもしれません。。。

透析室を預かる所属長として患者さんを助けることも考えておかねばならない一方で、どうしたら自分が生きられるのかも、頭の片隅でシミュレーションしておかないといけないのかなと考えています。。。(無理して生き永らえなくてもいいんじゃね?と思ったりもしてますけどw)