私はもうすぐ41歳になりますが、透析導入になりました。
出産を機に腎臓を悪くしましたが、出産自体は命に代えても惜しくない経験だったと思っているので、後悔はありません。(でも、こんなことになるのならいっそあの時死んだ方がマシだった・・・と思う時もまだありますが、可愛い息子をここまで育てられたのですから、そんな事を言ったらバチが当たりますね。)

私の父は37歳でこの世を去りました。肺ガンでした。
病気が解ってからわずか3カ月で、あっという間に死んでしまいました。
死にたくなかっただろうと思います。私が親になってみて、尚更そのように感じます。
父が亡くなった時、私は中学1年、弟と妹はまだ小学生で、妹はまだ8歳でしたから余計に。。。

透析導入になって思うのですが、基本的に私の現在の人生は「余生」です。
透析しなければ1週間程度で死ぬでしょうし、透析をしても健腎者ほど生きられないのは間違いないですし、というか透析患者の予後はとても悪く、数値的には転移性がんの患者より悪いことも知っていますから・・・。
下手したらあと数年、いや、もしかしたら年単位なんて生きられないのかもと思うこともあります。

透析になった時の喪失感、慟哭は、当初予想していた以上のものでした。
ずっと覚悟してきたことであっても相当辛く、耐えがたいものでした。
いっそこのまま透析をやらずに死んでしまいたいと、半分本気で思うこともありました。
サラリーマンの平均年収に匹敵するほどの高額医療費がかかる透析治療を、月々わずかな額(私の場合、入院で2万円、外来で2万円がそれぞれ上限となり、ひとつの病院に通院していれば、同月内に入院と外来でかかっても4万円が最高限度額)で医療が受けられることをありがたいと思うと同時に、私自身、こんなに社会的にお荷物になってまで生きる価値がある人間なのかと思うことも多く・・・どうにも割り切れない思いを抱えながら日々過ごしているのが正直なところだったりします。

こんなとき思うのは、私より4歳も若い時に逝ってしまった父のことで・・・多分父は死にたくなかったろう、石にかじりついてでも生きていたかったろうと思う一方で、あっさり数か月の苦しみで楽になることが出来て羨ましいと思ってしまうダメな自分もいます。
父がこんな私の気持ちを知ったらさぞかし怒るだろうと思いますが、死にたいのに死ねないのと、死にたくないのに死んでしまうのはどっちが不幸なのか判らない今日この頃です。。。

もちろん、息子のことを考えたら安易に「死」など口にはできないし、今後の息子の人生観を狂わせかねないような、親として私が自暴自棄になっている姿など見せる訳にはいかないと思っているので、精神力が続く限り生きることに意地汚くならなければと思うのですが、その一方で「もういいじゃない、もうやめようよ」と思う自分も時々顔を出し・・・葛藤しています。

透析患者のサイコネフロロジーについて、実体験を重ねながら学んでいる最中の未熟者のアタシです。
いつか何もかも諦めて悟って、こんな気持ちだったと導入初期の頃を笑えるようになりたいと思います。

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